句読点を使わないのが気遣いなのでしょうか

こんにちは、児玉です。

少し前にネットニュースやSNSで話題になっていたことです。

今の若い世代の人は、「LINEなどのメッセージに句読点があると、威圧感を覚える」というもの。
つまり、「若者はメッセージでは句読点を付けず、またそのような文章には好印象を持たない」ということらしく、更には、「若者は、句読点がある文書を目にすると、自分の責任を追及されているような、詰問に近いニュアンスを感じ取ってしまう」そうです。

ここで言う若者とは、三十歳未満の人を指すのでしょうかね。
もし、三十歳台の人も含むのであれば、余計に吃驚ですが…。

若者の定義年齢を多少上げたところで、到底若者ではない私には、さっぱり理解ができません。
むしろ、句読点がない文体でメールやSNSメッセージが送られて来たら、それこそ不躾で威圧的な文章と感じてしまいます。

実は、思い当たる節があります。
まさか、このことに関連しているとは思ってもみなかったのですが、もしかしたらそうなのかもしれません。

どういうことかと言うと、国語の作文や、理科・社会での記述式解答の文章で、生徒が書く文に読点がほとんど無いのです。

理科・社会の問題で記述式解答の文は字数制限もあり、短文であることも多いため、読点が不要の場合もあるでしょうが、国語の200字程度の作文でもそうなのです。
さすがに作文では句点は打たれていますが、読点の無い読み難い文が並んでいます。
もちろん、意味が分かりやすくなるように、適切に読点を入れるよう指導しています。
逆にやたらと読点の多い文も読み難いですが…。

しかし、このような読み難い読点無しの文を書く原因が、上のことに起因するかもしれないとは想像だにできませんでした。

本当に関係あるのでしょうか。
今も疑問ではあるのですが、もしかししたそうかもしれないですね。

でも、若者が句読点に威圧感を感じるのは、メールやSNSのメッセージでのことであって、しかも自身が読み手に回ったときのこと。
国語の作文や他の科目の解答では、読み手は採点者です。
採点者が句読点に嫌悪感など持っているはずなどないですから、適切に読点を入れ、読みやすくて真意が伝わりやすい文を書いて欲しいです。

それでは、また。

(注) 内容に合わせて、文・文章・文書という言葉を使い分けています。
表記の揺れではありません。

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